アオトのコゴト

ここは文字に臆病になった僕が通う診療所

「わたしを離さないで」第9話 すげーSFだった。

こんにちは、アオトです。

突然だけど、今週からお弁当を作り始めた。奥さんに持たせるためだ。というのもうちの奥さん、忙しいときには昼食を抜くことがザラらしく(そうなの、設計業は忙しいのよ)、ランチに出かけられる日も限られているのだそう。てっきり設計といっても会社だし、昼休憩の時間もしっかり決まっとんやろかいなって思ってたし、毎日どこかに会社の仲間と食事しに行ってるって絵しか頭になかったので、パラダイムシフト。こりゃいかん。わいが作らな。と思い立ったというのが簡単な経緯。

作ってから思ったけど、弁当に入れるおかずって難しい。一体何種類入れればいいのかわからない。「とりあえず卵焼きとプチトマトとあと冷凍食品1品ぐらい入れとけばそれなりに見栄えするだろう」と高を括ってたんだけど、それじゃあどうにも埋まらない。その割合でいくと、ごはんがお茶碗1.5杯分ぐらいになる。吉野家だったら大盛りぐらいの量かな。まあバランスの悪いこと。

なのでもう1品をないレシピから絞り出して作ってねじ込んで、奥さんに持たせた。喜んでくれてたから良かったけれど、これ毎日やるって日本のおかんすげーな。

ただ、奥さんも「冷凍食品ガンガン入れていいかんね」って言ってくれてるし、手作りのおかずも15〜20分くらいあればチャチャッとできちゃうから意外と苦じゃない。というわけで、主夫レベルまたひとつ上がりました。

 

で、本題。9話観ました。

 

まずど頭。画面に映った主人公、恭子(綾瀬はるか)を見て思ったこと。恭子の髪型変わってる。なんかメイクも若干違う気がする。そう、綺麗になってる。

これはきっと、トモ(三浦春馬)との二人の時間をようやく獲得した恭子の変化なんだと思う。やっぱり恋は女性を美しくするのだと思った。その細い表現がすごく気に入っている。

あと、ずっと気になっていたケータイ電話のことにも触れてたね。これはまあ、世界観回収しただけだろうけど、さらっと滑り込ませるぐらいの塩梅がちょうど良かった。グッド。

 

そしてなんといっても、恵美子先生との再会。今回のメイン。やっぱり猶予なかったね。あのあっさり無いと突き離す絶望感が見事に再現されていた。そして、原作愛者をも楽しませてくれる恵美子先生がクローン1号であったという"オリジナル設定"。

「おー、そうきたか」と感服。というか、この恭子・トモのふたりと恵美子先生のクローンによるクローンのだけの「人権会談」はSF的にすごくおもしろかった。てか、「わたしを離さないで」ドラマ版をずっと観てきて、一番ぞくぞくした。

「あるものがない世界を誰が望みますか」ってセリフとか、頭にすごく残る。クローンに人権なんてあるわけがないって世界は、どうだろう。現実世界でもしも同じ状況が生まれたらこのドラマのように"クローン差別"が問題になるはずだ。ならないわけがない。だって、人間だもの。

あ、ちなみに「だって、人間だもの」ってフレーズはぼくがこの世で一番憎んでいることばです(余談)。

 

こんな、名シーンが低視聴率のなかに埋もれていくのがすごくもったいないと思った。クローン同士が自分たちの存在について語り、涙をこぼす。あーやべーな、ハリウッドに観てもらいくらい良かやん。

原作ではマダムがふたりが去る間際に更に屍体蹴りするんだけど、ドラマ版のマダム中川はいい人でしたわ。

 

いよいよ本日最終回。正直、マダム宅のシーンが良すぎたので今回が最終回でも構わなかったのだけれどね。

 

そうそう、そういえばトモが本棚を物色するシーンで山内マリコさんの「東京23話」が本棚にあった。山内さん、うちの大学のパイセンっす。ただ読んだことないっす。あっ、そんだけっす。

 

 

 

 

 

改めて「わたしを離さないで」8話

改めても何も、前回はかすりもしない内容だったので。

 

8話ではとうとう美和が最後の提供を迎えた。命の警鐘が鳴るなか、恭子とトモにプレゼントを渡そうとしたり、恵美子先生の居所を記したメモを渡したり、恭子に「一緒に寝よ」って言ったり宝箱一緒に見て過去を懐かしんだり。もう手の平クルーでベタベタな美和。

ふん、ぼくはだまされないぞ。今まで美和が恭子とトモにしてきたことを考えると、まるで共感できない。というか、恭子はマジで天使すぎる。

 

しかし、最後にストレッチャーの上で美和が「離さないで」と悲痛な叫び声をあげたとき、ぼくの心はとうとう揺らぐ。あの一言に「ごめん」と「ありがとう」と「助けて」と、やっぱり「ごめん」が全部詰まっていた。そこで涙腺がちょっとね。うるっときたね。うん、水川あさみさん素晴らしい演技をありがとう。

 

と思ったら。まだセリフがあり、

「わたしを…離さないで」と。美和の心の叫びが病院の廊下に響く。

 

ここでストップ。あの、月9のときもそうなんだが、放送規定に「主題をセリフのどこかで回収せよ」的な号令がかかっているのか。なぜタイトルまるまる言わなきゃいかんのか。そこでさあっと涙は眼の奥に引っ込んでいきました。ちょっと残念。

 

で、美和が本当に天使になってしまい、いよいよ恭子とトモの時間が動き始める。第9話。いよいよ大詰め。

 

 

8話でさすがの脚本と思ったのは、旧陽光(現:ホーム?)に3人が訪れたとき、3人は恭子のルーツから生まれたもうひとりの幼い恭子(擬・恭子)に出会うシーン。ここは、なるほどなあと思った。原作を読んでいても全然そこまで思考を延長できていなかった自分にとってアハ体験。

そうだよな、1パターンのDNAからできるクローンが1体なんてことは限らないのだ。綾波レイみたいに大量生産されていても不思議じゃない。毎回観るたびに思うけれど、本当に原作をよく読み込まれてできたドラマだと思う。

 

ただ、残念だったのは……。船のシーン、やっぱりなかったですね。もうあれは文章のなかで完成されすぎているのでしょう。映像化は無理なんですね。そこだけすこし、さみしかったです。

「わたしを離さないで」8話 の前に…。

こんにちは、アオトです。

今日は3月11日ですね。東日本大震災から5年。今でも自宅に帰ったときにテレビの映像で見たおぞましい光景が脳裏に浮かびます。リビングのリクライニングチェアに座りながらその映像を見ていたおかんに「映画かなんかやってんの」と思わず聞いてしまったことも。その体験はワールドトレードセンターに旅客機が突っ込んでいく、セルフスローモーションの映像を観て以来。仙台空港が水浸しになり、住居などの建造物がまるで打ち上げられた魚のように水流に押し込まれていく様は、とても現実のものだと受け入れるに難かった。そんな悲劇から5年。今ブログを書いている時間の20分後に、発生時刻となります。早いものです。早すぎるものです。

 

そんな中、今日Twitterのトレンドに「偽善者」が入っているのを見つけました。これはなんとも、ほほう。興味深い。

人は、すぐに偽善者を悪者扱いする。なんなんでしょうね。そんなことを言い始めたら、日本国民のほとんんどが偽善者でしょう。復興支援している人がいったい国民の何パーセントを占めているのか。5年間片時もあの災害を忘れなかった当事者以外の日本人がいったい何人いるのか。ぼくだって全然ダメだし、そりゃ忘れていることがほとんどだったりするんですけど、そういう人が頑張ってる人とか復興を願う発言をしている人を否定するのはどうなのかと。

 

ぼくはいつも「偽善は善の始まり」と思っています。善行なんてね、端から見たら偽善にすり替わって見えちゃうもんなんですよ。そりゃ悪巧みを孕んだ思考の人もいるでしょうけれど、それはひとまず置いときましょうや。だからね、なんもしてない人が何かにつけて文句言っちゃあダメなんです。ほんとに。

 

最近は、小説やドラマ、映画などでもやっとというかようやく「あの日」についての描写が見られるようになってきた気がします。今回の月9「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」でもスキップはしているものの、震災について触れています。2週前の放送、静恵さんの家で5年ぶりに再会した音ちゃんと木穂ちゃんがごはんを食べているシーン。「震災のとき、練に連絡した?」「したよ」っていうやりとりがすごく印象的でした。

 

あの直接関わっているような関わっていないような絶妙な距離感は、今を生きる僕たちと東北との距離をそのまま表しているような気がしました。この言葉すごく嫌いだけど、あのシーンが妙に、というか恐いほど"リアル"だったのです。たとえ被災地に友達が居たとしても、

メールを1本打つだけだった(確か「電話もした」という描写があった気がしますが、曖昧でごめんなさい)。

または、連絡を取ることで精一杯だった。それしかできなかった。

でもちゃんと心配はしてた。

 

これすごく的を得ていると思うんです。

そう、僕たち非被災者はほんとに無力で、あのときは恐れることしかできなかったのです。ビビってたんです。

で、ビビってたらそのまま日常生活が再会したんです。それがすべてだと思うんです。

 

だから今日ぐらい、みんな胸はって偽善者になってもいいじゃない。「善いことしよう」って意気込んでからする行いが、結果「善いこと」ならいいじゃないですか。

 

僕が言いたいのはそれだけです。

 

って、あああドラマの感想どうしよか(笑)うん、別記事にします。

 

 

 

最近観た映画をさくっとまとめとく2

こんにちは、アオトです。

昨日は買い物に行くのにダウンなしでも暖かかったのに、今日は雪まじりの雨が降る大阪。そんな寒暖差の激しい外気に、ぼくは情けなくも身体をやられてしまっていた。2日間謎の頭痛に襲われる。というか、眼球の奥が痛くて本を読んでても文字は空中に飛んでいくわ、ランサーズの応募欄も読めないわで散々だった。それでも小説書きたかったから何度も挑戦したけど、パソコンを見てたら吐きそうになる。初めての体験にかなり戸惑って「お、そろそろあっしも終末ですかい」と思ったけど、そうは問屋が卸さず。十分な睡眠と一杯のビールで復活した。ありがとうキリンビール。というわけで、表題。前も言ったけどおすすめとかじゃなくて、ただの記録です。

 

「マイ・インターン」2015年:監督 ナンシー・マイヤーズ

徹底したナンシーの美的感覚に支配された映像空間に浸れた作品。中途半端な幸福感が意外となかったのもいい。「プラダを着た悪魔」のときとは真逆のやり手女社長のアンもはまり役だったと思う。「時間に厳しい社長自身は、会議に時間通りに来ない」。これはどこの企業にもあてはまるはず(笑)。とにもかくにもすごくいい気分でエンディングを迎えられる映画だった。BD欲しい。

 

「ノー・カントリー」2007年:監督 コーエン兄弟

今さらかよ。ととりあえず自分にツッコんどく。いやーもう、なんでしょうね。ハビエル・バルデムがマジですごい。マジでサイコパス。マジで顔デカい。

じゃなくて、暴力シーンとかよりも「ダークナイト」のジョーカー的な話術による狂気っていうのかな。ガソリンスタンドの店主とのやりとりとか、モスの居場所を聞き出すためのおばちゃんとのやりとりとかさあ。"真顔で復唱"されたら怖いわそりゃ。

「恋するバルセロナ」はダンディーで男前な役だったような気がするけど、「ノーカントリー」と「 スカイフォール」の印象強すぎ。でもキャラクターの濃度に負けないぐらいの俳優としての力量がいかんなく発揮されてた「ノーカントリー」。

原作は小説らしく、読んだことがないからわからんけれども、3人の登場人物が交わりそうで交わらないままの2時間、っていう構成がすごくおもしろかった。こんなんハラハラするわさ。BDめちゃ欲しい。

 

「ジュラシック・ワールド」2015年:監督 コリン・トレヴォロウ

めっちゃ人死ぬ。それはスピルバークの系譜でしっかり引き継がれててよかった。ただTレックス先生の登場はどうだろう。全然わくわくしなかった。「昨日の敵は今日の友」とでも言いたげな展開。「デッドマンズチェスト」のラストシーンで、バルボッサが「ハッハッハー」言うて賭場に現れてエンドロールっていうのはかなりシビれた。ぼくは過去作のキャラの復活はわりと好きなんだけど、Tレックス先生のはなんかちょっと違ったんだよな。うまく言えないけど。

ジョージ・ルーカスがJJエイブラムスの撮ったSWに「新鮮さがない。ぼくたちはいつもそれを追い求めて映画を撮ってた!」みたいなことを言って怒ったらしいけど。SWも「ジュラシック・ワールド」も過去作のひっぱり方が直球すぎるのかな。

とにかく、最近我が家ではもっぱらUSJの新アトラクションのCMを見るたびに、あのかわいい女の子がプテラノドンに拉致られるたびに「あ、終わったな」とか、「あ、死んだな」っていうのが流行ってます。

 

「メイズ・ランナー」2014年:監督 ウェス・ボール

壁のなかの生物が、ドラマ「漂流教室」の未来の人間みたいで懐かしかったです。それだけです。

 

「インター・ステラー」2014年:監督 クリストファー・ノーラン

「なんかこの始まり、『フィールド・オブ・ドリームス』みたい」と思って観ていたら、どうやらそれと「2001年宇宙の旅」をフォーマットにしているみたい。今回並べた作品のなかで一番好き。ぼくは、「2001年宇宙の旅」を観ていない。だからかつての人たちが同作を「SF映画の金字塔」と称えたように、ぼくは「インター・ステラー」をぼくたちの世代のための新しい、宇宙の旅。言うなれば「2014年宇宙の旅」だ。と位置づけた。あ、もちろん勝手に。

まだ見ぬ宇宙空間、人間の欲望、葛藤、愛、そしてなんじゃそらな展開。全部詰まってた。最高だった。「ワンダーとシンパシー」が完璧な割合で配合されていた。傑作です。

というか、クリストファー・ノーランはほんと良い映画撮るよね。「ダークナイト」は言わずもがな。「ライジング」の良作。そしてそのはるか上を「インター・ステラー」がいきました。ただ、「インセプション」が一番と言う人もいるんだけど、あの映画だけよくわからん。設定に頼りすぎない映画の方がノーランは面白い。

あー、今すぐにでもBD欲しい。

 

 

とまあ、こんなかんじ。ぼくの映画の評価基準というか良し悪しを決めているのは「ワクワクとドキドキがあるかどうか」です。それだけです。あんまり深堀りしないで観るのがぼくの楽しみ方。それは、人それぞれ。

 

そうそう。あとひとつ。アン・ハサウェイは作品に恵まれたハリウッド屈指の女優です。彼女の出ている映画はこわいぐらいハズレがないです。それだけっす。

ロボットにはパッションが必要だと思う

こんにちは、アオトです。昨日の大阪はすごく暑くて、朝ダウンを着てタバコを買いに行ったんだけど、途中で脱ぎました。日中は白シャツ一枚で十分すぎるほどで、そろそろ春をすっ飛ばして夏だな。なんて思ったりしてましたよ。

 

そうそう、昨日といえばテレビで「パシフィック・リム」がやってましたね。観てないけど。違うな。昨日は観てない。以前観ました。あれ何年前だったかな。先輩に「ハリウッドが超日本的なロボット大作を撮ったよ。ガンダムとか好きなら絶対観て後悔しないから」と熱弁されて、じゃあ観てみよかしらと思って拝聴した。

感想は「なんか違う」の一言。

 

その先輩は、「今までの海外ロボットものと違って、人が中に搭乗してまるで手足のように巨大ロボットを動かすんだよ」と言っていた。確かにそれは間違ってなかった。イェーガーと称される戦闘ロボットに、パイロットのふたりがコクピットに乗り込んで操縦する。操縦方法は、パイロットが両手足を動かすと、おっきい「メトロイドのサムス」みたいなイェーガーが連動して同じ動きをする。パイロットがふたり同時に右ストレートを繰り出せば、右パンチどーんってかんじで。

でもね、なんだろうな。なんか違うんだよな。あのコクピットの中で敵に対して四苦八苦してるパイロットたちがウォーキングマシーンでぜえぜえ言ってるおばちゃんにしか見えなかったのはぼくだけだろうか。

そう、結局「機械人形」でしかなかった。あれじゃあただのおもちゃじゃないか。

 

ぼくは小さい頃からロボットアニメが大好きで「ガンダム」シリーズはもちろん、勇者シリーズゴルドランジェイデッカーマイトガインとか)も欠かさずに観ていた。「ビースト・ウォーズ」なんかも流行りましたね。あれはちょっと異質っちゃあ異質だけど、ロボットものに変わりはない。

そんな「ロボット好き」の端くれの観点から、「パシフィック・リム」を観ると、「パイロットとまるで同機したようにロボットが動く」を勘違いしている。「ガンダム」を見ればすぐにわかると思うけど、ガンダムはあの狭いコクピットの中でまるで一体化したようにガンダムを動かすパイロットが「かっこいい」のです。あんなねえ、自由気ままに動くのとは違うんすよ。ハンドルとペダルをカチカチしながら戦うのがかっこいいんですよ。もし「パシフィック」的方式で動かすのなら、「Gガンダム」ぐらい振り切れろって話。だって、生身だぜあいつら。

 

そして、一番の違いはイェーガーに意思がない。もとい、パイロットたちに「こいつにも意思がある」という信頼関係がない。そりゃそうよね、だってロボだもの。マシーンだもの。っていうのが一番嫌だ。

例えば日本の場合。「Wガンダム」では、主人公ヒイロがガンダムに「なあゼロ教えてくれ」と問いかける。それに対してガンダムは「そうね、それはね……」と直接答えるわけではない。代わりにレーダーがピピピピブーーンって光ったりして反応する。

このかんじ、わかるかな。その無骨なやりとりがかっこいいのよ。今絶賛放送中の「鉄血のオルフェンズ」でもそれは受け継がれている。主人公のミカヅキが「お前はどうだ、バルバトス」って叫んだら、アイランプがピカーン! って光る。これ、別になんかのボタンポチッと押したわけではないんです。この「ありえないんだけど、ありちゃう関係」がたまらなくぞくぞくするんですよ。それがねえ、イェーガーと菊地凛子にはありましたか。ないでしょう。そこがなんか嫌だったんです。

 

そんななか思うのは、「パシフィック・リム」なんかより「トランスフォーマー(1作目)」の方が断然、圧倒的に日本らしくてかっこよくてなにより面白いということ。「トランスフォーマー」で主人公が終盤大ピンチを迎えて、咄嗟に「バンブルビー!!!」って叫んだ瞬間、ボロボロになって立ち上がるのもやっとのはずのバンブルビーが突撃してくるシーンなんかたまんない。日本の勇者シリーズを思わせる演出。胸熱すぎ。ぼく泣きましたから。ガチで。

 

あの"情熱"が「パシフィック・リム」というロボット作品にかんじられなかったんだよな。結局人間が作った機械人形以上でも以下でもなくなってしまったイェーガーさんは、すこし可哀想だとも思えなくもない。

だからぼくは「パシフィック・リム」が絶賛されているのを聞いて、「うん、当分トランスフォーマーだけでいい」と思っちゃったという話でした。

 

「わたしを離さないで」7話  セカチュー世代歓喜だったり

気付けば3月に入ってて、あっという間に雛人形を飾る日も過ぎ去って、もう週末。今年は去年より倍速でお届けされているんだろうか。まるで瞬きをしたら日付が変わっていくみたいに速いんだよなあ。こんな感じで歳とっていくのやだ。もっとスローペースでオッケなのに。

 

というわけで、「わたしを離さないで」も放送が7話を終えた。んで、今日は8話。だんだん前話を観るタイミングが遅くなっているのは、時間の流れの速さについていけてないのと、今クールの月9が予想以上に面白くて、そりゃもう面白くて、週頭でお腹いっぱいになっちゃったりしてるのが原因かと思われる。

 

で、7話で思ったこと。美和の入院している病院、少しキレイすぎやしないか。何あの近代建築。ロビーの梁がばーーん、って存在感マックスなんですけど。

だってさ、コテージ時代は蔑まれて、忌み嫌われてた存在だった「提供者」にあの施設の整い用はどうだろう。この手のひら返しはある種、「提供者」は提供をするまでは全くの無価値。提供が開始されて初めて、個々として認められるという仕組みなのだろうか。仮にそうだとしたら、施設に常駐しているNOD団体の男が「介護人」の恭子に辛辣なのもうなずける。ぼくの解釈が正しいかはわからないけれど、そうとでも思わないと合点がいかなかった。

 

あと個人的に嬉しかったのが、綾瀬はるか柄本佑の共演。セカチュー世代、小説よりも映画よりもドラマ推しだったぼくは思わず「おおお」って言っちゃった。ひとりで昼間にリビングで唸っちゃった。恥ずかしやー。

 

また、恭子が美和に「ぶっ殺してやろうかって思ったよ。それも何度も」と本音をぶちまけるシーン。初めて美和が聞く恭子の本当の気持ち。それ聞いて美和、車の窓から見える遠くの空眺めてちょっと目うるうるさせてニコッ。

いや、女の友情ってこんななの。ややこしやー。ややこしやー。

 

というか、陽光に行く流れは8話(つまり今日)までひっぱると思ってたけどあっさりオートマの車で着いちゃってた。ん。待てよ。待て待て。これ、もしかして船のシーンないのか。おれの大好きな小説のあのシーン。カズオイシグロのワンダーがリミッターを解除されたあのシーンは、どこかで通りすぎてしまったのか。

森下さん、お願いです。どうかあのシーンだけはやってください。ぼくは観たいのよ、あの幻想的なシーンが映像化されるのが。

 

その結果にドキドキしながら、8話心して拝聴する。

マドマーーックス!!

今日の晩御飯のポテトサラダにしようと決めて、鍋でぐつぐつじゃがいもを茹でているところです。茹でるときに皮を剥かずに茹でると旨味が逃げないそうだ。うむ、じゃがいもひとつ茹でるにしても学ぶことは多い( 'A`)φ

 

↑なんかぼくのmacbookさん、すぐに「学ぶ」を「( 'A`)φ」みたいに、なんでもかんでも単語を顔文字変換したがるんだけど、これ小説書くときすっげー邪魔。

 

┐(´∀`)┌ヤレヤレ

 

今日は閏年。例年より1年多い。といっても他の月より24〜48時間は確実に短いわけで、2月のあっという間さは例年どおり変化がないような気がスル。

 

そんなあまり恩恵を感じない閏年の今日、アカデミー賞の受賞発表でしたね。なんと、「マッドマックス 怒りのデスロード」が6冠を達成。Twitterもやほーも大盛り上がりです。ただ、「マッドマックス V6!」みたいな見出しが多いけど、マッドマックスにジャニーズのあのグループは出ておりません。ジャニオタの皆さん、イノッチもヒラパーの人もハゲにはならないのでご安心を。

 

マッドマックス (#・∀・)のデスロード」(※いやだから「怒り」だって。顔文字変換やめてくれよ……)を一度観た人なら、あの映画がどれだけ求心力があって魅力が枯れない2時間であるかは知っているはず。「映画、小説および芸術作品は娯楽を追求するべき」といつも考えているぼくにとっても、もちろんドストライクの作品。

旧シリーズを観たことがないので、語る資格はないけれど、過去作品のスタッフがもう一度集結したってところも良い。「現代の技術で撮った俺たちのマッドマックスがおもしろくないはずはない」という監督、スタッフの気概と意気込みをビリビリ感じる映画だった。ときどき「映画はこうでなくちゃ」と改めて感じる作品に出会うことがあるんだけど、「マッドマック 怒りのデスロード」は間違いなくそういう作品でした。

もう絶賛レンタル中だけど、大阪のステーションシネマシティではまだ日に1本上映しているそう。大阪在住のはてな民の方は是非。

 

余談だけど、作中で最強の女戦士を演じているシャーリーズ・セロンの画像を中学生のときに初めて買った携帯の待ち受けにしていたのが懐かしい。あれ、これほんとにどうでもいいな笑