アオトのコゴト

ここは文字に臆病になった僕が通う診療所

「わたしを離さないで」 3話を見て思ったこと

こんばんは、アオトです。

最近毎週の楽しみといえば、録画した「わたしを離さないで」を観ること。今回の3話では、幼少期が終わって青年期へ。陽光学園からの卒園を間際にした恭子たちが描かれている。

陽光学園では卒園後、外の生活に適応していくため、その助走として、コテージやマンションで共同生活をおくる。初めての学園外での生活に、もう生徒たちはウッキウキ。あらかじめ学園側から何種類かの物件を提示されているものの、どこへ、誰と一緒に行くかを決めるのは自由なのだ。初めての自己意志での選択。高揚がないわけがない。

「ねえ、一緒に行こうよう」「◯◯は誰と行くか決めたの?」とか、僕たちの世界でもよく見られる「トラブルにしかならない会話」が教室内に立ち込める。それは陽光学園内でも決して例外ではなく、各々の思いが少しずつ、だが確実に人間関係の亀裂を生み始めるのだけれど……。

 

今回衝撃的だったシーンといえば、真実を演じている中井ノエミさんがキレイだったことです。ではなくて、(いや実際、ああいう「影った」演技をできるハーフ女優の出現、しかもその子が美しいなんて、大変喜ばしいことなのよ)龍子先生による激白シーンでしょうね。

 

ーーサッカー選手にもなれないし、料理人にもなれないの。あなたたちは提供をするために生まれてきた代用品なの。家畜なのよ!ーー

 

的なことを突然生徒たちの前で叫ぶわけです。これにはマッドサイエンティストお笑い芸人コンビ、エミコ&ジローも「何してますねん姉さん。そりゃ監禁させてもらいますわ追放ですわ、よろしゅー」になるわけです。もはやお家芸なのです。

 

でね、そのセリフを頭の中で反芻しながら、僕は少し思ったわけ。

僕らには、きっと平等ではないにしろ、生きていればいろんな選択肢がある。「将来何になりたいか」などは、もはや催眠術のように小さいころから囁かれる暴力的な質問で、身分や階級に関係なく、夢をとりあえず抱くことができる。そして、人は夢見た自分の華やかなビジョンに翻弄され惑わされる。結果、その多くは諦められ、忘れられてどこかの墓地へと埋葬される。きっと今日もどこかでグシャっと夢が紙屑のように丸められいるのだ。

 

地球上の動物たちのほとんどは、繁殖という大義名分を全うするために生を消費する。ただ、強欲なヒトはそれだけに飽き足らず、夢のような妄想と期待を膨らませる。

 

なんで、夢見んだろうね。夢っていうのは、将来的に、その人の社会への関わり方につながっていく。

じゃあなんで社会への関わり方って、こんなにたくさんあるんだろうね。でもなんでたくさんあるのにそのなかに「普通」とか「正常」とか「常識」があって、その反対側が生まれちゃうんだろうね。

 

ー小説家というのは、社会への関わりを強く熱望しているのです。意外と。ー

 

三島がそれっぽいこと言ってて(もっと知的な言い方ですよ、もちろん)、「あんた、それほんまに言ってんのかいな」ってずっと思っていたんだけど、今回の「わたしを離さないで」を見た後は、なんとなくその気持ちがわかった気がした。

 

なんで夢、見んだろうね。

でも、小説がなかったら僕はどうなっていたんだろう。

 

その気持ちに反して、陽光学園の生徒たちの「定められた生き方、運命」を妬む感情があったことも、素直に記しておきたい。

 

あー、読みかえしたら何書いてるかわかんねえわ(笑)ちょっとビール飲みすぎでまとまらなくなってきたので、寝ます。