アオトのコゴト

ここは文字に臆病になった僕が通う診療所

追悼:デビッドボウイという現象

こんばんは、アオトです。

今日出かけようと思ったら、メガネの柄があらぬ方向に曲がっていた。「あ〜、最近ゆるかったし、そろそろネジ締めないかんな」と思っていたらそのネジがない。コタツやらなんやらいろいろひっくり返して探したけど見当たらず…。

ヤバい、奥さんにもらったものなのに。

慌てて近くのメガネ屋を検索。このへんで一番おっきい駅のテナントにメガネ屋を発見する(引っ越して気づいたこと。自分の町に何があるかを把握するのに時間がかかる)。電話して事情を説明すると「いいですよー、持ってきてください」と電話に出てくれた男性は一つ返事だった。

バスに乗って店へ向かうとあっという間に修理してくれた。しかもタダ。あざっす。

 

それはさておき、タイトルについてだけど。

世界中の方がご存知の通り、デビッドボウイさんが10日に亡くなった。69歳。癌だったそうだ。

 

これについてたくさんの人がSNSで追悼の言葉を唱えている。

TwitterFacebookにウェブニュースのコメント欄。はてなにもそういった記事が多いかもしれない。

そんな悲しみにくれる文字、貼り付けられたデビッドボウイの画像を眺めている中である違和感が生まれた。

なんか、デビッドボウイの死がファッション化してないかって違和感だ。

 

そもそもデビッドボウイのデビューは1960年代。今からもう50年以上も前。もちろん僕が生まれるずっと前だし、僕はデビッドボウイを後追いで聴いてもいない。だから彼の偉大な功績も、wikiでちらっと見た程度。

 

僕は音楽は嫌いじゃない。60年代の音楽が嫌いというわけでもない。年代が一致しているかはわからないけど、エリック・クラプトンやE&F、レッドツェッペリンは高校の時に良く聴いてた。単に、デビッドボウイという音楽を聴く機会がなかっただけだ。

だから、あまりピンとこなかったのです。彼の死に対して。正直なところね。

ずっと遠くの人がひとり、また天国に行ったんだ。と思うのが限界でした。

 

ところが、Twitterなんかを見ていると、高校生や大学生、20代のモデルさん(これには奥さんが憤懣していた笑)たちがこぞって彼の死を嘆いている。そこで、むむ? と思うわけで。

 

もちろん、40〜50代のド世代の人たちが追悼の意を示すのはすっと入ってくるんだけど、世代のかけ離れた若年層が「まじかよボウイ死んだのかよマジショックだわ」とか言ってるとガガガと頭の中でなんかがかみ合わなくなる。

 

そんなに好きなのかい? 好きだったのかいデビッドボウイ? 

iTunesに入ってたりすんのかい?

 

そりゃ親の影響で、とか、僕でいうエリック・クラプトン的に後追いで聴いてる人もたくさんいるでしょう。だから一概にそういう人たちをまるっと一括りにするのは横暴なのはわかるけど、それでも、僕は違和感を拭いきれない。

 

本当のファンは静かにそっと、胸の前で十字架を切ったんじゃないのか。

Twitterのトレンドに入ってたからつぶやきました、って人いませんか?

一大ニュースの空気だけ察知してFacebookでニュース記事をシェアしました、って人は?

 

こんなことばっか言ってると「お前デビッドボウイも知らんくせに、音楽云々語んなや」って思われるでしょう。だから、安心してください。僕は音楽家にはなってない。

 

たった28年の中で、好きな音楽を自分で選んで聴いてきた、どこにでもいる一般ピーポーにすぎない。だからここの状況に疑いの目を向けてしまう。

 

今はいろんな情報が、自分の意に介さず次から次へと舞い込んでくる。もうそれからは逃れられない時代ではある。でもその中で、いったい何人の人が心の底からデビットボウイというひとりの人間の訃報を嘆いているのだろう。

何か腑に落ちない、そんな気持ちになってしまった。