過ぎ去った言葉の重さ(物理)
最近見たネットの記事で、「宇多田ヒカルの『Automatic』のフレーズに注釈をつけないといけない時代になった」的なやつを見つけた。
同曲のなかの歌詞、「7回目のベルで〜」の「ベル」が通じないとのこと。
同じようにぼくが大好きなブルーハーツの名曲、「青空」の歌詞にある「ブラウン菅」ももちろん通じないとか。なるほど。
でも、「ベル」も「ブラウン菅」もだけど言葉自体がもっている響きが良い。たとえ意味が通じなくたって、それらを生で体感していない世代でも、なにか訴えるものがあるんじゃないかなって思う。希望的観測すぎるかな。そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
そしていつか、今当たり前に使ってる言葉の「スマホ」も、過去になる日は必ず来る。「ベル」や「ブラウン菅」のように、過ぎ去ったが故に哀愁の増す言葉に「スマホ」がなれるのかどうか。その結果は未来に行かないとわからないけど、ぼくはそうならない気がする。
なんというか、重みがないんだよな。受話器ガッチャンって置く電話も、分厚いテレビもどんどん軽量化されて、それに比例してそのもの自体に対する「愛着」も薄くなっていないだろうか。
もしかして物質的なものに由来してるのかな、哀愁って。卒業アルバムが重たいのもそのいうことか、とへんな納得をしてみた。