過ぎ去った言葉の重さ(物理)
最近見たネットの記事で、「宇多田ヒカルの『Automatic』のフレーズに注釈をつけないといけない時代になった」的なやつを見つけた。
同曲のなかの歌詞、「7回目のベルで〜」の「ベル」が通じないとのこと。
同じようにぼくが大好きなブルーハーツの名曲、「青空」の歌詞にある「ブラウン菅」ももちろん通じないとか。なるほど。
でも、「ベル」も「ブラウン菅」もだけど言葉自体がもっている響きが良い。たとえ意味が通じなくたって、それらを生で体感していない世代でも、なにか訴えるものがあるんじゃないかなって思う。希望的観測すぎるかな。そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
そしていつか、今当たり前に使ってる言葉の「スマホ」も、過去になる日は必ず来る。「ベル」や「ブラウン菅」のように、過ぎ去ったが故に哀愁の増す言葉に「スマホ」がなれるのかどうか。その結果は未来に行かないとわからないけど、ぼくはそうならない気がする。
なんというか、重みがないんだよな。受話器ガッチャンって置く電話も、分厚いテレビもどんどん軽量化されて、それに比例してそのもの自体に対する「愛着」も薄くなっていないだろうか。
もしかして物質的なものに由来してるのかな、哀愁って。卒業アルバムが重たいのもそのいうことか、とへんな納得をしてみた。
「重版出来」最終回
ブログには今まで一切書かなかったけど、「重版出来」は本当にいいドラマだった。
今年度、いや大人になってから見たドラマで一番良かった。毎週感動をもらっていた。同時に、「がんばろう」という気持ちもたくさん届けてくれたドラマだった。
漫画家、サラリーマン、フリーランス、もちろん小説家だって。世のなかにいる「今を生きてる」人たちみんなに響くドラマってなかなかないと思う。
ただ、メディアは視聴率云々をぼやいている。実際に裏番組のフジのドラマには負けていたそう。それでもTwitterでは大盛況。つまり、こんな時代でも「本当にいいもの」を見ている人は見てるってことがはっきりした結果だった。
これは、希望だ。 という、イチ視聴者の意見。
デッドプールはMAVEL&DC至上、一番地球に優しい人でした。
昨日、話題の「デッドプール」を友人Oに誘われて観てきた。
予告では「クソ無責任ヒーロー」というキャッチだけど、彼はヒーローじゃない。劇中で本人も何度も公言している。彼は自分を貶めた奴らへの復讐のために悪い子をこらしめているだけ。純粋な復讐者であって、ヒーローではない。ちょっと不死身になっちゃっただけなのだ。
作品自体は、構成とカメラワークが新鮮でとってもおもしろかった。ヒーローものだけど、主人公のデッドプール自身がブラックジョークをバンバン放り込みながらめちゃくちゃ喋る。それがテンポの良さに繋がっているので全然飽きない。ただ、同MARVELシリーズの「X-MEN」ネタや、ハリウッドスターの揶揄とかが多いので知らない人は置いてきぼりにされる。でもデッドプールは悪くない。悪いのは鑑賞者です。
あとは、戦闘シーンが見応えがあったかな。これ、ヒーロー映画の醍醐味なんだけど、特殊な能力(目からビームがドーン! 雷ドッカーン!!)みたいなことができないおかげで、基本ジャパニーズソードと銃のみでの戦闘。そのシンプルさが、個人的にはすごくよかった。
また、映画を通して思ったことはタイトルにもあるけど「デッドプールってめっちゃ地球に優しい人だわ」ってこと。
思い出してほしい。ヒーローってすぐ市街のど真ん中でガッツリ戦闘おっぱじめるから平気で民間人巻き込むでしょ。「マンオブスティール」なんかが特にそうで(これはDCだけど)、宇宙人ひとりと闘うのにビルを何棟破壊したか。何人の無関係な人が死んだかわかったもんじゃない。お前も地球から出ていけよ! って誰だって思うでしょ。
他のヒーローもだいたいそう。最終決戦でバンバン街壊して、やっとこさ敵倒して「ふーっ。おつかれ!」ってドヤ顔されても「は?」ってなる。
その点デッドプールは無駄な殺生はしないし、最終決戦の場も廃工場と、すごく健全。それもある種のメタだったのかな、と思うけどとにかく地球の地盤ひっくり返すようなことはしていない。この「傍若無人な暴れっぷりに隠れた優しいところ」に勝手にニヤニヤしながら映画を観終えた。
あとは、マブカプファンとしてはデッドプールがX-MENに参加、じゃなくて”乱入”してくれることを心より楽しみにしています。クソ真面目に闘ってる面々の横で、鑑賞者にその模様を実況してるシーンとか観てみたいなー。次回作の制作費もきっと潤沢だろうし、今後もデッドプールに期待。
最後に、主人公デッドプールがマスクで覆うことになった、焼けただれた顔面を見てぼくは「スポーン(SPAWN)」を思い出した。同じくアメコミ原作の1997年に映画化された作品なんだけど、あれめっちゃおもしろかったんだよなあ。なによりかっこいいし、ノーラン監督でリメイクとかやってほしーよなー。
「北海道児童置き去り事件」でぼくがY君に抱いた恐怖について
こんにちは、アオトです。
3日前から風邪をひいていて、頭痛がひどくPCもスマホも長時間見るのがつらい。さらにこういうときの活字は余計につらい。そして今日、日曜日。頭痛はようやく回復した。はあしんどかった。でも喉がいてー。超いてー。ずっと我慢してる麦酒をいい加減飲みたい。あ、これもしかして飲んだら治る? 早く言ってよね。よし、本日解禁じゃ。
ほんじゃ、タイトルについて。
連日ニュースで報道されていた、北海道七飯町の山林で起きた児童置き去り事件。
言うことを聞かなかった子供、Y君(7歳)を両親が山道に車から降ろして放置。5分後に現場に戻ると少年の姿がなく、事件化。捜査員を200人動員、馬や警察犬まで引っ張りだしてきたにもかかわらず少年の行方は判らず。両親の証言にも疑わしい部分が多いことから捜査は迷宮入りが濃厚だったが、事態は急展開。6月3日朝、隣の鹿部町にある自衛隊演習場(行方不明現場から10km離れた地点)にて発見。少年にはやや衰弱の兆候が見られるものの、大きな外傷はないという。事件発生からおよそ6日後の朗報だった。
ってのがざっくりした概要。世間では親のしつけの限度、基準についてがもっぱら話の中心のようだけど、それは教育委員会とかその辺に任せておくとして…。ぼくがこの一連の事件で一番考えさせられたのが、Y君というひとりの「恐るべき少年」についてだ。ここからは全く信用ならないテレビ報道の情報のみからぼくが感じたことを書きます。なので情報に偏りがあるのはご愛嬌で。
この事件に関してぼくがY君の行動で気になったことは以下の3つ。
【1】両親から「置き去り」にされる直前に、石を他人や車にぶつけていた。
【2】6日間水だけで空腹をしのぎ、まだ寒さがはっきり残る北海道の夜を自衛隊演習場に放置されていたマットレスだけで5日間も切り抜けた。
【3】最初にたどり着いた演習場から移動しなかった。
以上。じゃあ具体的に。
まず【1】。このことからY君は相当なやんちゃ坊主だったことは容易に想像がつく。人に石をぶつけるって、しかも7歳がってさ、相当なストレスを抱えていたんだと思う。仮にこの行動を彼の最上位の、自分以外の何かに対する悪行だったとしても、他にも小さいイタズラは日々行われていたはずだ。だって、いつもおとなしい我が子がいきなり石つかんでボンボン周囲に投げ始めたら、親って怒りよりも前に心配するでしょ。
「Y、どうした? 何かいやなことあったの? お母さんに話して。お願い」とかが普通の流れだと思う。それが山道で車から降ろしたってことは……。
そんなイタズラが日常茶飯事で親がどれだけ叱っても、一向に改善の見込みがない。所謂、「手がつけられない」状態がずっと続いていて、両親にとっては悩みの種以外のなにものでもなかったんじゃないだろうか。前述に「ストレス」なんてかわいい書き方をしたけれど、7歳の少年の心の中に「悪事を楽しむ」感情が少しでも芽生えていたのだとしたら、親からしたらたまったもんじゃない。つまり、親・子ともに抱えていたストレスが爆発したのが今回の「置き去り」になったとしたら合点がいくとことろもいくつかある。
次に【2】。その放置された子供の勇気ある行動が、結果彼をまだこの世にとどめたことになる。これはすごいことだ。その辺でキャーキャー言ってる子供たちのすべてが彼のような行動を取れるかといったらたぶん無理だ。つまり、Y君には並外れた行動力と精神力が備わっていることになる。やんちゃ坊主のことだから、バカで力任せなのだとばっかり思っていたけど、この少年、頭も切れる。ここでぼくが心配になったのが、彼の行動の動機はどっちなんだろう? ということ。
「お父さん、お母さんの言うこと聞かなかったぼくが悪いんだ。でももう一回会いたい。家族も絶対悲しむ。まだ死にたくない。美味しいご飯が食べたい、友達と遊びたい、ゲームもスポーツもいっぱいしたい。まだ死にたくない。怖い怖い怖い。生きたい生きたい生きたい……」って感情だったとしたらまともでしょう。まだ希望がある。でもこういった「正」の力より「負」の力が大きかったとしたら。
「あいつら絶対許さねえ。こんな目に遭わせやがって覚えとけよ」「帰ったら何倍にもして仕返ししてやる。だからオレは絶対死なない。たとえ腹が減って意識がぶっ飛びそうでも、誰かがここに助けに来るまで生き延びてやる……」って思ってたとしたら。
彼が水道から流れる水を唇をあてる度に【屈辱】。薄汚れた、シミだらけのカビ臭いマットレスに挟まって天窓から落ちる月明かりを見つめながら【屈辱】。およそ児童離れした判断力・行動力の起源が狡猾で、煮えたぎる怒りからだったとしたら……。
そして最後に【3】。【2】ではちょっとマイナスに思考を傾けすぎた。【3】は、ぼくがそうやって「Y君がもしかしてヤバいやつなんじゃないか」って思ったきっかけの部分。
彼が寝泊まりしていたと思われる自衛隊演習場は、Y君失踪現場とされるところからおよそ10km離れた場所に位置する。ってのは最初に書いた。子供にしたら10kmって果てしなすぎる距離だ。けど、彼は置き去りにされた初日にここまで辿り着いている。つまり、がんばれば半日かからずしてどうにか歩けたということだ。初日で、雨風をしのげる場所と、水と、寝床を確保。そして、彼は発見される5〜6日間の間ここに留まる。
この、”留まる”という行動が子供っぽくない。とぼくは思った。だって、初日でここまで来たんだよ。だったら「ここよりもっといい場所があるかもしれない」って思わないかな。その演習場だって食料もなければ助けを求められる人もいなかった、つまり完ぺきではなかったはずだ。
「ぼくはここまで独りで来れたんだから、もう少し歩いてみよう。もしかしたらちょっと行った先に人がいて、ぼくを助けてくれて、お家まで連れて行ってくれるかもしれない」って思わないだろうか。
いや、結果そう思わなかったことが吉と出たんだけど。行動力抜群の少年がそこで疲れ果て、力尽きたためにじっとしていたとは思えない。ちゃんと判断したんだ。状況と環境を的確に読み取って「此処カラ動ク可カラズ」と判断したんだ。
これ、相当すごくないか。彼天才でしょ。っと思った。だから「ヤバい」はある種良い意味での「ヤバい」なんだけど、じわじわと「恐ろしさ」も感じるもやっとした気持ち。
で、【1】【2】【3】を振り返って結論、ぼくがいちばん心配なのはこの家族の今後だ。
まず両親はこの一件で相当参ってるはず。世間の目もいつまでも気になってしまうと思う。Y君に対して、申し訳ない気持ちと自責の念が絡まってしまうせいで、うまく叱ったりできずにY君の子育て、指導には今まで以上に苦労するだろう。
逆にY君のほうには「親に見捨てられた」という出発点から親と離れ、発見されるまで生き延びたという経験と自負が与えられた。これ、やんちゃ坊主にとって一番手にしてはいけない勲章じゃないだろうか。もう、Y君は無敵状態ですよ。なんでこんなことばっか言うかって? 懲りてるはずでしょって? 確かにそうだけど、その先の話ね。
もし、Y君が順調に快復して元気モリモリになって親もぼくに申し訳なさそうにしてるし以前と違って強く当たってこなくなったのを感じとって余計に悪さして石とか釘とかボンボン投げまくって、さすがにそれはあかんわY君って見兼ねた親が真剣に怒ってきたとしても、
「また、山に行くの?」ってY君の一言で、親はワンパンでしょう。もう手も足も出ねーよきっと。
この事件解決に対してネットでもY君に対して「よかったね」とか「がんばったね」とか「美味しいもの食べるんだよ」的な意見ばかりが目立つ。確かに、子供の命が助かったのは本当に良かったことだよ、これ以上ないよ。でも、ここまでだらだら書いたようなネガティブな結末が脳裏をよぎったぼくは、やっぱりまだ風邪気味なのかしらん。
考えすぎなのは、ぼくだけなのかなあ。
昨日の「ソロモンの偽証」
最近、1日の睡眠で3〜5パターンの夢を見る。しかも断続的に繰り返されるからすぐ目が覚める。やってられない。慢性的に眠い。
そんな眠気をぶっ飛ばしたのが昨日の金曜ロードショー「ソロモンの偽証 全編 事件」だった。
宮部作品をひとつも読んだことがないぼくはストーリーも全く把握しておらず、金ローの公式ツイッターで「学校内裁判」というキーワードだけをつまんでテレビの前へ。
それが、あっという間の2時間半だった。なんでぼくはこの映画を放置していたのだろう。それは邦画が嫌いというのが一番の要因なのだけれど、これはしくじった。久しぶりに展開に震えた。演技・演出にドキドキした。これはナンチュー映画じゃ。めちゃくちゃおもしろいじゃないか。
ストーリーもさることながら特筆すべきは主人公藤野涼子演じる藤野涼子(今作で女優デビュー。しかも芸名がデビュー作の役名という異色なデビューらしい)。
まだ16歳で、蒼井優のような雰囲気を醸しながら毒がなく、純粋さとクリアさが前面に出ている。かといって青臭いわけでもない。サツキやキキや千尋など、ジブリの主人公の少女たちを彷彿とさせる。そういった二次創作にも当てはまりそうなんだけど、日本的。まるで同作で共演している黒木華のようでもあるし、かつてのアイドル山口百恵のようでもある。
いやー、彼女は今後かなり期待できる新人さんだわ。大女優の予感しかしないので、お願いです日本のメディアおよび放送業界。彼女を決して潰さず良質な作品に出演させ続けてください。
映画時代は、今作のラストは永作博美さんの熱演で幕を閉じたわけだが…。やっぱり永作ちゃんはラグビー選手に囲まれているより銀幕の方が似合ってる(笑)。怖すぎて思わず横にいた奥さんの肩にぎり潰しそうになった。
来週もめちゃくちゃ楽しみ。しかも今日は「海街dialy」の放送もあるし、そっちも楽しみ。というか最近、youtubeよりもテレビの方が面白いと感じることが多い。テレビがまた息を吹き返している気がする。
え、ぼくだけ?
三谷幸喜作品はやっぱり「ミタニーランド」だった
こんばんは、アオトです。
GWも終盤に差し掛かって憂鬱な気分には……まあぼくはならないんだけど。というか、どこ行っても人が多いから早く終わって欲しいくらい。
もちろん、うちの奥さんも連休中。だけど7月にある建築士の試験に向けて朝から晩まで学校通い。この努力、実れよ。実ってくれ。
そんななか、休憩がてらに三谷幸喜監督の「清洲会議」を今更観る。ぼくは正直三谷作品は苦手。そして「清洲会議」でもその苦手意識は払拭できなかった。とりたてて言えば、今までエンドロールまで瞼が開いていた作品が一本もない勝率の低いなか、初めて観破した作品になった。ぐらい。
ぼくは以前から、三谷作品が「ディズニーランド」みたい。と思っている。
ディズニーランドってさ、ぼくも2回しか行ったことないから言えた口じゃないけど、
ひとつの場所で大多数の人間が同じものを共有してて、それでいてハッピー。って感が拭えないでしょ。いや、みんなそれを求めてるんだけど。春に行こうが夏に行こうがクリスマスに行こうが、ある一定のクオリティを入園者に提供し続けてきた世界。そしてなにより、ファンの期待を裏切らない。
それと一緒で良くも悪くも三谷作品には、「大ハズレ」がない。常にファンやメディアを納得させるある一定のレベルで作品を発表している。確かにこれって並大抵のことじゃないと思う。凡人には無理。やはり喜劇に愛された男、であることは間違いないのだけれど。でもあくまでそれは、「完成度」の部分だけの話だ。
ぼくは正直、それらの作品群に「ワンダー」がないと感じてしまう。意外性とかそういうの。映画監督が同じでも作品よって評価が分かれる。それって当たり前だと思うのね。あのノーランだって作品ごとに「あーおもろかった。さすがノーラン」っていうものや「おい、どうした。ずっと40度の高熱と戦いながら撮ったのか」って思うやつもあるわけで。でもそれは常にチャレンジをしているからで、別に一本ぐらいつまらないくらいで嫌いにはなったりしない。
でも三谷作品は違う。みんなが口を揃えて賞賛する。「さすが三谷。ブラボー」と拍手喝采。ぼくはそういう現象が苦手。気持ち悪い。それがぼくに「夢の国」だと思わせている一番の原因かな。
いや、三谷さんは悪くない。悪いのはきっと斜めにしかものが見れないぼくと、メディアの宣伝の仕方なのだけど。
といった具合に恐ろしく三谷作品を楽しめていないぼく。でも三谷さんにはいつまでも喜劇と向き合い続けて欲しいという願いと(観るとは言ってない)、一度がっちがちのサスペンスやホラーにも挑戦して欲しいなという期待(これは楽しみ)、両方の思いが渦巻いている。
「レヴェナント:蘇えりし者」を観てきた〜スーツを脱ぎ捨て、毛皮を纏ったレオ様〜
こんにちは、アオトです。昨日ですね、公開が楽しみだった「レヴェナント:蘇えりし者」をレイトショーで観てきました。すでに日本でもレオナルド・ディカプリオが彼岸のアカデミー主演男優賞を獲得したことでも大きく話題となったこの作品。ちなみにぼく、レイトショー大好き人間です。500円OFFの魅力はもちろん、日中はごったがえす梅田のシネコンでも夜になれば人影はまばらでゆっくり観れるのが好きで、よくお世話になっています。そして、結婚して初のひとり映画でした。
あらすじとかは書きません。感想だけ。
まずは、映像の美しさ。人間の小ささを嫌というほど知らしめる雪山、連なる山脈。足元からパンされて映る木々の営み。時に美しく時に残酷さを纏った表情豊かな空。その映像の連続を観れば、いかにスタッフが尽力を注いだ作品かわかります。そのなかでも注目したのは「水」の扱い。
「静」の水たまり。木の葉から滴る「微動」の雫。勢いよく流れる「動」の河水。またときに水は「雪」や「氷」に形を変えます。それらは人を嘲笑い、ときには潤し、ときになぎ倒し、ときに手を差し伸べる。様々なシュチュエーションで展開される「水」の描写、そのレパートリーの多さにただただ感嘆しました。
いやいや、「水・空・緑・大地」って芸術作品のテーマで使い古されてるじゃん。テッパンじゃん。と思う方は、観ない方がいいです。というか、映画を観なくていいと思います。お疲れさまでした。ぼくは「レヴェナント」を観て、改めて「水」というステレオタイプのツールがいかに新鮮で美しいかということを再認識させられました。そう思えただけでもこの作品を観てよかったと思ったし、自分の作品にもいつか組み込んでいきたいと思いました。
風景と自然の描写だけでもお腹いっぱいだけど、キャストにも目を向けなきゃね。
主演はいわずもがなのレオナルド・ディカプリオ。そういえばディカプリオの作品ってどれぐらい観たっけーっと思い返していると、
「タイタニック」
「インセプション」
「ジャンゴ」
「華麗なるギャッツビー」
ぐらいのもんで、どちらかといえば「観たい映画のたまたま主演もしくは助演」って感じです。「生粋のレオ様ファン」には申し訳ない体たらくです。でも、好きですよ。「もうキャ〜キャ〜言われたかねえんだよ、おれはよお!」感むきだしで、世論に歯向かって演じているレオ様が好きなのです。
今回の作品はそれが顕著、というかモロ。「スマートでキュートでおしゃれ」のレッテルを全部ぶん投げた体当たり演技でした。そりゃアカデミーの審査員も大手を広げて賞の壇上に迎え入れたのもうなずける仕上がり。
はてな界のレジェンド、伊藤計劃氏が生前「ブラッド・ダイヤモンド」のディカプリオを「あのベビーフェイスに髭面がどうにも…」と納得のいっていない発言をしていたのですが(※でもレビュー終盤でしっかり合点がいっておられた)、もうベビーフェイスを覆い尽くすヒゲ、ヒゲ、ヒゲもじゃのロングヘアー。ちゃんと様になってましたよ。40歳を超えた男の渋みと凄みが容姿を上回る迫力を呈していました。数少ないぼくが観たディカプリオ作品では一番カッコよかったです。
ただなあ…ただなあ……声がなあ。
高い。
声可愛すぎるんだよな。
そこが少し残念。もっとドスの効いた声をレオ様! 容姿の凄みをもう少し声帯に! いや待てよ。逆にそれが、あの過酷極まりない山岳地帯においての人間の空虚さを増幅させる装置になっていた、ってこともあるんだけど…。でもそれにしても…。うーん、惜しい。
同じことを感じた人がいたなら、ぼくは両の手で強い握手がしたい。ぼくの要望はそれぐらいです。
また、そんな彼の脇を固める俳優陣には「アバウト・タイム」主演のドーナル・グリーソン(おおー!)、「メイズ・ランナー」のウィル・ポールター(あの映画のときより断然良かった!)、「マッドマックス〜怒りのデスロード」主演のトム・ハーディー(このタイミングでヒール役かよ! 熱すぎる!)などなど。今映画界を引っ張っていって欲しい俳優さんたちが出演していて、誰得? ってくれいボク得でした。
そして、これから観ようと思う方は心して観ていただきたい。ぼくね、正直に言うと昨日は寝不足で鑑賞前に異常な眠気に襲われていたんです。「ヤベ、これ寝ちまうパターンだわ」と諦めかけていたんですけど、いざ始まると寝る余裕が1ミリもなかったです。というか緊迫した展開に緊張しまくりで、上映中ずっと力が入っていたんでしょう。映画館を出てあと耳の裏がつってました(笑)。あと、"レオ様の映画は絶対見なきゃ死んじゃう"病の方、特に女性の方も気をつけて。自然描写は美しいですが、そうとうグロテスクなシーンが続きますので。ご容赦ください。この点でぼくは、「血とか暴力とか生々しい描写苦手の奥さんと来なくて良かった」と思ったんですから。
いやー、なんかすごいものを観せられた、魅せられたあっという間の154分でした。映画館で観てよかった。だって、1日たった今日もまだ興奮が冷め止まぬ状態なんですもの。こんなの久しぶりですわ。
最後に。作中、何度も天に召されかけるレオ様演じるグラスですが(だからこの邦題かよ笑)、あるシーンで教会の廃墟と思しき場所にグラスが降り立ちます。頭上で揺れる鐘、点在する壊れた壁、そして水溜り。あれこれってタルコフスキーの「ノスタルジア」のオマージュじゃないのかしらん。と、ちょっとしたアハ体験がありましたとさ。